12 電子辞書事始 (関戸雅男)

■最初のフルコンテンツ電子辞書
 1990 年9 月、研究社は8cm CD-ROM をデータ記録媒体とする「電子ブック」(EB)をプラットホームに『電子ブック版 新英和・和英中辞典』を発行して電子出版に参入しました。これに先立って開発を進めていた『リーダーズ英和辞典』のCD-ROM 版は、英和辞典の日本語訳から英語見出し語を検索するためのインデクスの構築が難航していて、比較的仕様が単純な電子ブック版の発売が先行することになりました。当時は『広辞苑』(岩波書店)、『現代用語の基礎知識』(自由国民社)、『12か国語辞典』(三修社)などがCD-ROM 製品としてすでに市場にあったものの、電子出版物を身近なものと感じる人は少ない時代でした。
 上記電子ブック版の出版からほどなく、半導体ROM にデータと検索エンジンを収録し、キーボードと液晶表示画面を備えた今日一般にいわれる電子辞書(IC 電子辞書)を手がけていたセイコー電子工業(現、セイコーインスツル)から、コンテンツとして『新英和中辞典』『新和英中辞典』のデータ提供の打診を受けました。このカテゴリの製品には出版社の手になる本格的辞書はいまだ搭載されておらず、実現すれば最初のフルコンテンツ電子辞書になるということでした。辞書はその電子化が急速に進むであろうとの認識をもってCD-ROM 版電子辞書の開発を急いでいたわたしたちは、新たな電子媒体に辞書の世界を開くこの引き合いに速やかに応じ、電子ブック版の製作で整備されたデータを電子辞書向けに提供しました。この電子辞書は1992 年1 月TR-700 として発売され、その売れ行きから、企画はわたしたちの眼には一応成功と映りました。しかし一方では、この事態を出版社としてどう見るべきかを考えさせられることにもなりました。研究社には海外の出版社との著作権の取引はあるものの、国内の異業種の企業との取引は、これら二つの中辞典を使用許諾したコンピュータメーカーとのあいだ以外にはそれまでありませんでした。しかもそれは大型コンピュータ上の翻訳支援辞書という用途に限定された契約でした。ところが今回は一般の人々が使う辞書のマーケットをいわば出版界の外にある産業にゆだねる可能性のある取引だったわけです。

■低価格化と複数辞書搭載と
 わたしたちは、電子辞書が将来新しい辞書の形態として定着することが予測されるならば、自らの製品として電子辞書を製作販売すべきと考え、1993 年『リーダーズ英和辞典』を自社製品として電子辞書化することに踏み切りました。セイコー電子工業との間に、研究社が製品の仕様を定め、セイコー電子工業がそれに従って検索エンジンの開発、データの加工を含め電子辞書を製造するという契約を結びました。同社には、さらに、金型の使用や工業製品に必要なマニュアルの製作、サポートのノウハウの提供など、いろいろな面で協力を仰ぐことになりました。
 そして1994 年、研究社ブランドの電子辞書『IC 辞書リーダーズ英和辞典』ICDRE1が誕生しました。販路をこのような商品に理解を示していただいた書店と大学・高校の先生方への直販にしぼり、全国各地の店頭を借りてデモを行なうなど、販売に力を入れましたが、結果はかならずしも満足のいくものではありませんでした。数年をかけて初回のロットである1 万台をなんとか完売する見通しが立ったころには、電子辞書の市場には低価格化が進行するなど変化が起こっていました。特筆すべきは、複数の出版社の辞書を1 台に搭載した製品が出現したことです。1995 年セイコー電子工業から発売された『広辞苑』と『新英和・和英中辞典』を搭載したTR-9000 がその一例です。電子辞書はいまや検索性能に優れるだけでなく、大部の辞書を何冊も搭載して持ち運ぶことのできる携帯性と紙の辞書を圧倒するコストパフォーマンスを謳うものに進化していました。

研究社:ICD-RE1

 このような状況を作り出したのも実はわたしたち自身でしたが、英語を中心とした限られた外国語の辞書しかもたない研究社が自社コンテンツだけで電子辞書を商品として成功に導くことは不可能なことと思われました。経験した販売上のさまざまな困難も手伝って、わたしたちはこれに続く新たな電子辞書の製品化の計画を断念しました。
 それから10 数年を経た現在、医学書院がいわゆるハードメーカーの作る電子辞書に同社独自のコンテンツを核として収録、特徴ある自社ブランドの電子辞書として製品化して成功を収めているのは慶賀すべきことと思います。

◎関戸雅男(せきどまさお)JEPA 前会長、研究社からJEPA に参加。