20 読み物電子化への挑戦 ――「新潮文庫の100冊」と「新潮ケータイ文庫」 (村瀬拓男)

■「検索」ではなく「読む」電子出版に
 1994 年暮れ、文学辞典のCD-ROM を完成させた後、特に企画が決まらないままアルバイトの学生たちと雑談をしていたときのことです。一人が「新潮文庫の100冊をやったらいいんじゃないですか」と言ったとき、CD-ROM 版『新潮文庫の100冊』の企画がスタートしました。広辞苑に影響される形で当然のように辞書類のROM 化から始めた新潮社の電子出版ですが、やはり得意分野に切り込んでいかないと注目もされないし、評価もされないということに,恥ずかしながらそのとき思い至ったのです。新潮社にとってもっとも知名度があるのは新潮文庫であり、「新潮文庫の100 冊」キャンペーンは既に20 年続いていて、誰もが知っているフレーズでした。
 「検索」する電子出版ではなく「読む」電子出版にしたい、という構想は文学辞典のCD-ROM の頃からありましたから、後はそれを実現できるツールを揃えるだけです。ブラウザはその少し前にデモを見せてもらったボイジャーのエキスパンド・ブックとし、ウィンドウズ版開発と合わせて、中身の制作と協同歩調をとってもらうことに。文字も活字の雰囲気を出したいと考え、大日本印刷に秀英体のTrueType フォントの提供を依頼したところ、社長決裁でOK が出たということで、「読む」電子出
版としての環境は揃いました。膨大なラインナップから100 冊をセレクトするのは編集者にとって楽しいの一言です。その後約1 年弱の間に、ブラウザ、フォント、コンテンツデータを完成させたこの企画は、95 年の暮れに初回1300 枚が即完売し、翌春までに2 万枚を超えるヒットとなりました。
 しかし残念ながらCD-ROM 商品としてヒットしたからといって、媒体が安定してくれないのが電子出版の世界です。ROM はその後「新潮文庫の絶版100 冊」「シャーロック・ホームズ全集」「シェイクスピア大全(全戯曲を坪内訳から福田訳、小田島訳まで収録し、全台詞をデータベース化した力作ですが)」など計6 点で打ち止めに。2000年9 月には、新潮社を含む出版8 社が共同で運営する電子書籍ダウンロード販売サイト「電子文庫パブリ」がスタートするなど、電子書籍の媒体は、一挙にネットに移っていきました。

■「通話代よりパケ代のほうが多い」
 ところがネットに移ってきたものの、PC においては有料モデルがなかなか確立できないまま苦戦を強いられることになります。なにか突破口がないか模索していた2001 年春、ROM でずっとタッグを組んでいたNEC インターチャネル(当時)から携帯電話公式サイト用企画立案の話がきます。当時の携帯はようやく画面が大きくなり、キャリアによっては5000 文字程度のロングメールができるようになったころです。新入女性社員に聞くと、「当然通話代よりパケ代の方が多いですよ」の一言。そ
うか、携帯は会話ではなく読み書きのツールなのか。ならば携帯で本を配信するのはどうだろうか。さすがに長文は厳しいだろうけど1500 字くらいなら読めるかもしれない。新聞連載小説と同じ程度の長さだな。連載媒体としても使えないか。という思考の流れを一挙に辿り、「新潮ケータイ文庫」の企画がまとまりました。
 初の携帯小説と言われる「Deep Love」が話題となっているころではありましたが、最初に持ち込んだドコモの反応は鈍く、au とj-phone(現SoftBank)に持ち込んで、ようやく2002 年2 月にサービスをスタートすることになりました。出版部若手に「自由に使える連載媒体をあげるから」と声をかけ、常時数本の新作連載と、毎日日替わりの星新一ショートショートを中心としたコンテンツを揃えました。「文庫」とは言っているものの実態は「雑誌」で、ROM と同じく文庫のネームバリューを利用したのです。
 「新潮ケータイ文庫」はすぐに会員数2 万人を超え、安定して運営できるサイトに成長しました。キャリア公式サイトとして読み物を全面に押し出したのは日本初ということで、朝日新聞1 面に記事が出ましたが、数百店もの電子書店がひしめいている現在からわずか数年前のことなのにすでに隔世の感ありという感じで、この世界の時の流れの速さを感じます。とんでもない駆け足で私がかかわった読み物電子化の流れを振り返りましたが、例えば20 年以上前に刊行した文庫本でもいまだに版を重ねて売れているものがあることを考えると、電子出版の媒体環境の変化の速さは出版界にとっていかがなものか、と感じることもあります。スペースの関係でこれ以上は語れませんが、なんとも言えない複雑な気持ちです。

◎村瀬拓男(むらせたくお)新潮社からJEPA に参加。現在は弁護士としてJEPA のセミナーな
どに登場