電子出版のデスクトップ14

(ま)を欠く

―日本語を読みやすくする(3)―


 日本のWebはなぜ読みづらいかの続きである。現在のディスプレイ解像度では「表現力ある漢字のディスプレイ・フォントが実現できない」というのが前回の話題だ。補足をする。現在の日本語フォント、まことに努力賞もの。たった16ドット程度で明朝体とゴシック体の特徴を出す。まさに職人技だ。欧文と比較した場合、組版のメリハリはたしかに物足りないが、可読性という点ではギリギリの及第点だろう。
 しかし文字は及第点でもWebの日本語組版には及第点はあげられない。その原因はふたつある。ひとつは行間がゼロであること。もうひとつはフォントが固定ピッチでないことである。(日本語固有の問題ではないが、1行の字数と行の左右の余白も大切だ。)
 現在のWeb技術はこれらの課題をクリア出来る。ためしに固定幅のフォントで行間を150%程度とってみてもらいたい。ゴチャゴチャとした日本語の画面がスッキリとする。スッキリとまでいかなくても当たり前という印象を受けると思う。
 ごく当たり前という印象はごもっとも。これらのことは今までは常識的なことだったからだ。問題はこの当たり前のことが何故ディスプレイ上で実行されていないかということだ。ここではそこを考えてみたい。
 問題の背景にあるのは「パソコンは一覧性に欠ける」という思い込みではないかと考えている。
 「パソコンは一覧性に欠ける」というのは本当だろうか?手近にある本の1ページ当たりの字数を数えてみた。ある新書は42字×15行で630字。B6判の単行本は43×16行で688字。A5判横組の標準的な専門書で35字×32行、1120字である。本によって多少はあるだろうが、大体こんな数字になるはずである。
 これに比べパソコンの画面はどうだろう。MS-DOSの時代さえ40字×20行、800字が表示できた。つまり一般の単行本のページ当たりの字数を超えていたのだ。現在の17インチディスプレイなら少し大きめの文字を使って少なくとも60字×36行、2160字は並べることができる。専門書の見開きの字数が入ってしまう。
 新聞や雑誌、大きな数表と比較した場合、たしかにパソコンは一覧性に劣るといえる。しかし文字中心の一般的な本と比較した場合、パソコンの方がはるかに多くの字が並んでいるわけだ。
 新聞や雑誌は読む前にまず眺める。数表は眺めるという機能そのものである。しかし通常の本は「読む」のだ。読む場合は一度にあまり文字が並ばない方が読みやすい。
 一般書より専門書が読みづらいのは、内容の難しさもあるが、一度に目に入る字が多すぎる点も大きいのである。その専門書よりも多くの文字を詰め込んで、パソコンは何故読みづらいのかというのは愚問である。
 紙の本の編集者がまず最初に決めることは、判型、字のサイズ、1行の字数、1ページの行数だ。これがページの基本デザインを決定する。これらの要素を決めると行の間の白い部分つまり行間が決まり、次にページ周辺の白い部分つまりマージンが決まる。極論すれば版面のデザインとは白い部分をどの程度どう配置するかなのである。
 ところが電子出版にあっては「一覧性がない」からとギュウギュウに文字を詰め込んだ。親の仇でも見たように行間もマージンも駆逐したのだ。標題の「間を欠く」とは「用が足りない」という意。行間も余白も「間」を欠いた文書(→例)が読みづらいのは当たり前のことではないか。
(続く)
『情報管理』Vol.43 No.2 May. 2000 より転載

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