電子出版自分史1982-2000

2001.07.01

講談社  岡崎 憲行

 私はJEPAとの関わりがまだ浅く、昨年7月、理事代理のご承認をいただいてからの、 1年にすぎません。となれば、経験豊富な先輩会員がなみいるなかでの「キ-パ- ソンズメッセ-ジ」は、少し荷が重過ぎますので、私がデジタル出版にどう出会い、 何を感じてきたのかを「世紀末自分史1982-2000」的にまとめてみました。
 そもそも、JEPAに加えていただくきっかけは、'98年10月に発足した電子書籍コン ソーシアムで読書端末部会長をつとめ、2000年3月末で実証実験を終了した同コン ソーシアムがJEPAに組織合同したことです。 電子書籍=e-bookに大きな関心を持っていた私は、コンソ-シアム結成に先立つ 「電子文庫」の研究会にも参加させていただき、シャ-プさんの液晶を使った携帯 読書端末の可能性を垣間見たりしました。iモ-ドがすぐ登場するなどとは知ら ずに。
 ところで、お恥ずかしいことに、私は、いまだにコンピュ-タ-に関することは、 いまだに初歩レベルですが、デジタル的なるもの=デジタル編集との出会いは、 かなり前の'82年にさかのぼります。
 その年の6月、会社の留学生として渡米した私は、実務研修ということで、編集 の最終段階に入っていた「英文日本大百科事典」(講談社1983年刊行)の本文組版 の進行のお手伝い。全9巻の膨大な英文テキスト組みを、米国有数の印刷会社 ComComに発注しており、東京・本社での校正・校了は距離と言葉の壁ゆえに難航 していました。それに加えて、コンピュ-タ-組版とその前提となるデジタル編 集のコンセプトが、まだ日本にほとんど無かったことも大きかったハズです。 乏しい英語力に、初めて聞く用語がいっぱいでてきて「米国のコンピュ-タ-組 版」はかなり進んでいると実感。
 米国(New York)には82年から93年4月まで滞在しましたが、ちょうどデジタル社会 になだれこんでいく時代でもありました。コンピュ-タ-のダウンサイジングが 進んで、ホ-ムコンピュ-タ-と呼ばれ、オフィスや家庭に普及していき、つい にはPersonal Computer(PC)が定着しました。
 当然、出版も変わります。TBSブリタニカさんのNEWSWEEK日本版創刊の頃は、同誌 やライバルのTIME/PEOPLE誌の編集部を頻繁にたずねました。感心したのは、週刊 誌の編集・制作が、スタッフ各自にコンピュ-タ-(まだ PCとか端末= Device と呼ばれず )を用意して社内 LANで結び、整然とデジタル化されていたこと。
 85、 6年頃でした。 88年から大友克洋氏の大人気コミック「アキラ」をEPIC COMICSより、英文出版。 当時、アメコミはカラ-が主流で、87年暮れより日本版をコンピュ-タ-・カラ -リング。大友氏の原稿をスキャンして、マウスを巧みに駆使する彩色作業に仰 天しました。 85年10月オ-プンのMITメディアラボでは、ネグロポンテ教授のBeing Digitalを キイワ-ドにネット社会を先取りした研究のほかに、90年以降のe-paperに代表さ れるデジタル時代の出版像も追求していました。このラボで多くのアイディアに 啓発され、とくにインタ-ネットの予見は大きく、ウエアラブルPCのように 5、 6年後に現実味を帯びてきたものもありました。
 こうした、刺激ゆえか、帰国後まもなく、96年秋より、凸版印刷さんのサイバ- パブィッシングジャパンと提携して、社のホ-ムペ-ジを開設。97年から98年は SONYさんとPHSでのコンテンツ配信実験、ここでは、当時の元木週刊現代編集長と 一緒に同誌の記事要約に挑戦。この翌年に、彼が中心となってweb現代を創刊して います。
 また、e-bookをつきつめると、つい紙の出版に戻ってしまい、キラ-コンテンツ でブックオンデマンドの拡大をもくろんで、昨年3月、村上龍氏の新作「共生虫」 を単行本より先行してオンデマンド。10月には源氏大学ドットコムを立上げ。い ずれも富士ゼロックスさんの全面協力にもかかわらず、話題にはなってもビジネ スはいまひとつでした。
 というふうに、10年以上の関わりを振り返ってみると、あらためて、デジタル出 版でも、いまだ初歩レベルを試行錯誤しているなあと嘆息しています。