Shuno の方言千夜一夜


目次

第0夜 秋田弁・東京弁・標準語・共通語
第1夜 なげる
第2夜 ら付き言葉
第3夜 できる・できない
第4夜 馬糞
第5夜 貸しがある
第6夜 丸い卵も切りよで四角
第7夜 似て非なるもの
第8夜 やだーきったなーい
第9夜 今日の仕事は辛かった



第0夜 秋田弁・東京弁・標準語・共通語

『新版国語辞典(講談社学術文庫)』によれば、「標準語」というのは「音韻・語い・文法などの点で、標準・規範となることばの体系 」で、「共通語」は「一国内で、方言をこえて全国に通ずるものとして用いられることば 」となっている。また、これについて議論があることも承知している。
 これから、方言にネタを得た話を続けていくについて、この辺ははっきりさせておかなくてはなるまい、と思う。
 基本的に「標準語」という言葉を使う。
 理由は、大多数の人が「標準語」を使っているから。それだけだ。
 勿論、違いをはっきりさせる必要がある場合には、最初の定義にしたがって使い分けるつもりではいる。

 俺は秋田県秋田市出身である。ご幼少のみぎり秋田県大館市に引っ越し、青森県弘前市で幼稚園の前半までを過ごし、青森県青森市に小学校3年まで在住。小学校4年生になるときに、秋田市に転校してきた。聞くところによれば、見事な津軽訛りであったらしいが、本人は覚えていない。
 大学入学時に上京する。当初、県人寮にいた。全県から学生が集まっているから、各地の方言が乱れ飛んでおり、ここでちょっと自分の秋田弁が乱れる。
 外では、一応「標準語」で話をしていた。文法的には間違っていなかった筈だが、どうしようもないものがある。
 アクセントだ。
 具体的に言うと、「椅子」は「イ↓ス(「イ」が高く「ス」が低い)」であり、「後ろ」は「ウ↓シロ」であった。
 一般に、アクセントや発音は変更しにくいものだそうだが、これが「イ↑ス」「ウ↑シロ」になるまでに、本人が努力しなかったせいもあるが、10 年かかった。その後すぐに秋田へUターンしているので、無駄に終わるのだが。

 逆に、「うざったい(鬱陶しい、面倒くさい)」「ため(同年齢)」などの、主に若い層が使用する東京弁は、ほとんど使わなかった。

 不思議なもので、出生地・秋田に帰った今、仕事のときは完全に共通語を使っている。
 というのは、小中高とスポーツに縁の無い生活を送った俺は、人格すら否定されるような厳しい上下関係にさらされたことがない。他人はともかく、先輩・後輩程度なら、最低限の敬意は払うにせよ、基本的には友達同士のような環境で暮らしてきた。そのため、秋田弁の敬語を操ることができない。
 仕事は、オフィシャルなものだ。相手が間違っていた時でも「馬鹿しゃべすな(馬鹿なことを言うな)」とは言えない。「お言葉を返すようですが、それには同意いたしかねます」という様なことを言わなくはならないのだが、それができない。したがって、共通語でしゃべるしかないのである。
 そんなわけで、仕事絡みの人とは、酒の席でも共通語で話すことが多い。

 とは言え、Uターンしてまもなく5年。電話で東京の知り合いと話していても、「そんなことするか、普通?」「したがら(そうだよねぇ)」などと、うっかりすると秋田弁が出そうになる今日このごろである。





第1夜 なげる

 標準語で言うところの「捨てる」という意味である。
 秋田(多分、東北全域)では、なにかを「捨てる」行為は「なげる」と言うことに決まっている
 キャッチボールのような行為、これは「投げる」と言っていいことになっている。守備範囲の広い言葉である。
 勿論、「ごみ箱に放り投げる」ものに限らず、「せっかく作ったプログラム」や「約束」など、「破棄する」が相当するような場合でも「なげる」ということができる。

 こういうことを言うと、余所の人は「それじゃややこしいでしょう」と言うのだが、考えてみて欲しい。ものを捨てる行為と、ものを投げる行為とを混同して話が通じない、というようなケースはちょっと考えにくいではないか。

あど、このボール投げるが(もう、このボールはなげてしまおう)」

 とか、

わりども、このゴミなげどいてけね(悪いけど、このゴミをなげておいてくれないか)」

 と言ったら、投げるではなく、捨てるのだと見当がつくであろう。
 なに、混乱したら聞き返せばいいのだ。これしきの事で死にゃしない。さすがに「命を投げる」とは言わないのだから。

 不幸にも「捨てる」ことを「なげる」と言わない地域の人は、「『捨てる』ことを『投げる』なんて変だ」という。
 しかし、中学生のときの記憶を呼び起こし給え。「捨てる」を英語で何と言うであろうか。
 そう、“throw away”だ。
 わざわざ「アンダースロー」だの「フリースロー」だののスポーツ用語を持ち出すまでもあるまい。「投げる」という言葉で「捨てる」という動作をあらわすのは、ごく自然なことなのだ。
 更に、別の言語を調べてみよう。

フランス語  jeter  投げる、捨てる
ドイツ語  werfen ueber  捨てる
 〃  werfer  ピッチャー

 ということだ。諦めなさい。

 他の方言はどうだろう。
 『日本の方言地図(徳川宗賢編 中公新書)』によれば、近畿に「ほうる」「ほかす」という勢力がある。「ほうる」等は「なげる」と発想は同じである(内蔵料理、ホルモンは「放るもん」=「捨てるもの」から来たそうだが、本当だろうか)。
 関東では「うっちゃる」という言い方があるらしい。相撲の決まり手にもあるが、相手をほうり投げるような技だから、やはり「投げる」と「捨てる」には密接な関係があると思われる。

 東北地方の出身がよその土地に行き、間違って使う表現の一つだそうだ。なぜなら、「投げる」という言葉は標準語にもあるからだ。「投げる」という言葉を「捨てる」という意味で使うのが方言だとは夢にも思わないわけだ。

 さて、何故「命を投げる」とは言わないのだろうか。
 ここからは、完全に推測。
 方言は生活の言語である。「ハダハダ、たげくなったでー(ハタハタが高くなったなぁ)」とか「いっぺのみさねが(一杯、呑みに行きませんか)?」という時に使う言葉だ。多少の訛りや単語の混入はあるにしても、議会での議論が秋田弁で行われることはない。そうは聞こえないことはあるかもしれないが、一応は標準語風の言葉でしゃべるようになっている。
 で、毎日の生活場面で「命を捨てる」状況に出会うことはあんまり無い。高校生や酔っ払いは会話の端々で「命を掛ける」ことがあるようだが、「命を捨てる」話はほとんど聞かない。方言が適用されるような表現ではないからではないか。

 それにしても、初っ端の話題が「なげる」とは、我ながらいい度胸だとは思う。

補足

 秋田県南部の由利・本荘地区から山形県庄内地方にかけては、「うだる」と言うそうだ。語源が思い付かない不思議な単語である。「うっちゃる」に似てはいるが、「うぢゃる」くらいならともかく、「うだる」への変化はちょっと無理があるような気がする。「うとましい」との関連も考えて見たのだが…。
 ところで、秋田で「県南」と言うと、秋田県の南半分というよりは、横手・湯沢といった内陸・南西部を指す。海岸沿い・南東部の由利・本荘地区が、秋田藩ではなく、庄内藩であったことが影響しているのだと思う。
 秋田市の北側に「南秋田郡」があったりして、ちょっとややこしいかもしれない。




第2夜 ら付き言葉

 世間では「ら抜き言葉」が話題である。「食べれない」などがそうなのだが、混乱して「読めれない」などと言うのもいる。
 ま、一応、理には叶っているらしい。審議会が「容認しない」と抗ったところで無駄なのだ。
 こういう新しい表現が「軽薄だ」とか言って嫌われるのは、新しい表現を積極的に採用するのが、よく言えば因習にこだわらない、悪く言えば軽薄な人たちだからだ。表現が軽薄なのではなくて、使ってる人が軽薄に思われるから、嫌がられるのだと思う。
 あ、俺自身は「食べれない」とか「降りれませーん」は嫌いだ。

 色んな IME(Windows の漢字変換ソフト)メーカーが、文章校正機能の中に「ら抜き言葉」の使用を指摘する、というオプションをつけているのだけれども、これなどは、わざわざソフトウェアに組み込むほど普遍的な要素かどうか、ちょっとした博打だったのではないだろうか。
 尤も、(そんなことはなさそうだが)もし「ら抜き言葉」が一時的なもので消えてしまったとしても、ソフトウェアの寿命も昨今はがんばっても2年がいいとこのようだから、大した害はないのかもしれない。

 秋田では、「呼ばれる」を「呼ばらいる」と言うことがある。
「い」は音便だとしても、「ら」は何だ? ひょっとして、秋田弁にしかない新しい現象、「ら付き言葉」なのだろうか! 我々は、次世代の表現が誕生する瞬間に立ち会っているのか?

 いや
 答えを言ってしまえば、なんのことはない、「呼ぶ」を「呼ばる」と言うからだ。

「あなたを呼んでましたよ」は「あだどご 呼ばってあったよ
「呼んでこい」は「呼ばってこい
「呼ぼうか?」は「呼ばるが?

 となる。
 終止形が「呼ばる」の動詞を受け身にしたら「呼ばら・れる」になるのは当然のことだ。困ったことに、手もとの資料をあたってもその手の論文が見当たらないので、自分で活用表を作ってみる。

未然  連用  終止  連体  仮定  命令
呼ば・ない/呼ぼう  呼び・ます  呼ぶ  呼ぶ・時  呼べ・ば  呼べ
呼ばら・ね/呼ばら  呼ばる・す  呼ば・る  呼ばる・時*1  呼ばれ・ば  呼ばれ

 標準語で「ば行五段活用」のところ、「ら・る・れ」の「ら行三段活用」というべき形に見えるが、実は、話はもうチョイ面倒で、連用形がちょっと違う。
「呼びます」に対応する形は「呼ばるす」だが、「呼びたい」に対応するのは「呼ばりて」で、突然「り」が登場する。「ら行四段活用」となる。
「四段活用」と聞いて、古語の授業を思い出す人もいるだろう。そう、方言は、実は古語と関わりが深い。単純に言えば、昔の表現がそのまま残っていることが多いのである。「呼ばる」がいわゆる四段活用の単語かどうかの裏は取ってないが。
(第6夜に関連記事)

 ちょっと話がそれてしまった。
 方言というと、「発音が訛っている」とか「変な言葉を使う」という程度のイメージしかない人も多いと思うが、実は文法体系からして違う*2のだ。非常によく似た、別の言語だと思った方が適切な場合も多い。
 俺が始めてそのことを知ったとき、かなり驚いたが、皆さんはどうだろう。

*1

 正確に言えば、「呼ばる時」の発音は「よばるづぎ」である。ついでに言えば、「呼ばる」と言う時、「よ」と「ば」の間には「ん」の音が聞こえる。周りに東北出身者がいたら、ゆっくり発音させてみると分かるかもしれない。

*2

 @nifty の<全国ふるさと交流フォーラム>で聞いた話だが、下関では「お元気でしたか?」を「元気なかった?」というそうな。これは「元気な」+「かった」であって、「元気」「無かった」ではないのであろう。




第3夜 できる・できない

「れる・られる」という助動詞がある。夕べ、「ら抜き言葉」の話をしたけれども、可能の意味を持つ助動詞である。
 だから、「食べることができる」は、標準的には「食べられる」といい、「食べることができない」は「食べられない」と言う。

 和英辞典で「可能」を引くと、“able”,“possible”,“capable”あたりの単語が出てくる。なんでこんなに、と思って良く見ると、それぞれ「優れた能力がある」「可能性がある」「ふさわしい」と、微妙に違いがある(『プログレッシブ英和辞典(小学館)』)。
 残念ながら、本邦の標準語でこれを言い分けるには、今、鍵括弧付きで言ったような難しい表現を付け加えるしかない。

 秋田弁
 あるに決まってるじゃないですか。
 水泳を例にしてみる。

「スイミングスクールに通ったので、泳ぐことができる」は、「泳げる」だ。多少の訛りはあるかも知れないが。
「天気もいいし、波も静かだから、泳ぐことができる」は、「泳ぐにいい」だ。
「ずっと山育ちなので、泳ぐことができない」は、「泳げね」だ。
「昨日からの雨で海が荒れているから、泳ぐことができない」は、「泳がいね」だ(「泳がれね」の音便である)。

泳ぐにいい泳がいね」が示しているのは「状況が許すかどうか」であり、本人が金槌なのかそうでないのかは問題になっていない。「泳がいね」といった場合、たとえフジヤマのトビウオだろうが、バサロ泳法だろうが、泳げないのである。
泳げる泳げね」は、万能選手であり、状況・本人の能力、どちらが話題になっていても使える。標準語には、この表現方法しかないわけだ。

 更に。
 海に遊びに出かけようとしている子どもに、母親が「風、強ぇがら(つぇがら)、泳がいねよ」と言ったとする。これまでの知識を用いれば、「風が強いから、泳ぐことはできませんよ」と状況を説明している、と解釈できるが、これは間違い。
 正しい意味は、「風が強いから、泳いじゃ駄目よ」である。
泳ぐにいい泳がいね」が「状況が許すかどうか」を述べているのだから、その否定は「状況が許さない」であり、これが「してはいけない」となるのは、ごく自然なことだ。
 禁止表現としては弱く、このお母さんの言うことを聞かないで海に入ったことがばれると「泳ぐなって言ったべ!」とごしゃがいる(怒られる)ことになる。

 ここで、他の方言や古語との比較ができれば、話が厚みを増すのだけれども。

 あ、津軽弁で「駄目」ってのを「まいね」って言うけど、どういうことなんだろうなぁ。

補追


 証拠写真。
 米内沢(よないざわ:秋田県森吉町)の道の駅の洗面所に貼ってあった。「この水は飲まれません」とある。

補追2

 東京の紀伊国屋書店で「この階段では4階には行かれません」という看板を見た。
 これは、例の「ら抜き言葉」に連なる変化(混乱)の一端であると考える。秋田弁で「れない/られない」が禁止をあらわすのとは、出自が別であろうと思う。
 ただ、この点を考えると、上の「補追」で挙げた「この水は飲まれません」が果たしてどちらの要素が原因で発生したものか、ちょっと怪しくなってくる。




第4夜 馬糞

 今回は、解説も謎解きもない。疑問の提起だけで終わる。

 馬車が交通の主体だった頃は、どこでも見かけるものの代名詞だったのだ、馬糞は。で、事もあろうに人様の名字にくっつけてしまった人がいる。いわく、「佐藤・高橋、馬の…」いや、やっぱり書けない。

 詳しい背景は専門家に譲るが、確かに、秋田には「佐藤」という人は多い。迂闊に町中で「佐藤さん」とは呼べない。会社に電話を掛けたとき、あるいは受けたとき、相手の名前を「佐藤さん」とだけ覚えていたのでは役にたたないことも多い。
 こういう、仲間の多い名字の人で、自分が呼ばれたときに違和感を感じたことのある人はいないだろうか。「確かに、自分の名字なんだけどなぁ」と。
 それはきっとアクセントだ。

佐藤  さ↓とうさん  さ↑とうさん*1
高橋  た↑か↓はしさん  た↑かはしさん 
大中  お↑お↓なかさん  お↑おなかさん  東京で知り合った九州の人だったが、俺の名字は前者だ、といい張っていた
生田  い↓くたさん  い↑くたさん  確か東京出身だが、親は九州。本人は前者のアクセント
千野  ち↓のさん  ち↑のさん  言語学の千野教授の講義で聞いたことがある

「藤田」あたりもそうだろう。
 そうかと思えば、「佐々木」「斎藤」などのように、恐らく全国で同じアクセントを使うだろうな、という名字も多い。字数の違いでもなさそうだし。

 他に不思議な名字というと、「かわださん」。
 俺が知っている「かわださん」は、「河田」も「川田」も、「か↓わださん」であった。しかし、よく似た形の「山田さん」も「沢田さん」も、「や↑まださん」「さ↑わださん」さんしか聞いたことがない(「か↑わださん」はいそうな気がするが)。
*4

 人の名前を呼びかけに使うと、自然に上昇口調になってしまうこともあるし、その辺の特殊事情も絡んでくるのかもしれない。
 それにしても、どうして地域差や個人差*2が出てくるのか、不思議だと思いませんか?それとも、単に俺の回りでそうだ、っていうだけの現象なんだろうか。*3

*1

 蛇足だが、秋田弁では、「佐藤さん」を「さ↑とうさん」と呼んだときの発音は「佐渡さん」に近い。

*2

 若い人に聞くと、例の「上がりっぱなし」アクセントに統一して答えてくれそうである。

*3

 俺の知っている人の名字を多数挙げたが、思い出しやすかっただけで他意は無い。

*4

 @nifty の<全国ふるさと交流フォーラム>で聞いた話だが、鹿児島では、「中嶋」は「ナカシマ」、「山崎」は「ヤマサキ」、「富士山」が「フジザン」だそうな。「山崎」の例は、作者が都城出身の「釣バカ日誌」にも描かれているとか。




第5夜 貸しがある

 我々、方言の立場から言わせてもらうと、標準語には多大な貸しがある。どうも、お忘れの方が多いようなので、確認させていただく。なに、借りを返せといっているのではないから、安心し給え。

ハマナス」という植物はご存知だろうか。見たことはなくても、名前を聞いたことくらいはある筈だ。
 これは、である。なんで「ナス」なの?と思った人は偉い。「ナスって木になるんじゃないの?」と思った人はエイプリルフールには BBC を見ないように気を付けよう。「ナスって工場からスーパーに直送されるんでしょ?」と言う方には出直していただこう。
 余裕があったら、試しに手元で漢字変換してみて欲しい。「ハマナス」+[変換]=「浜梨」。ここでピンと来た人はかなり偉い。5センテンス先にお進みください。
 なんで、「浜梨」が「ハマナス」になってしまうのだろう。植物事典をお持ちの方は調べて見てください。国語辞典でもかまいませんが、オチが見えてしまうと思うのでお気を付けください。
 主な植生地は北海道から東北。まだわかりませんか?
 ここは、いわゆる東北訛りとそれに隣接する地域。
 そう、「ハマナス」は「ハマナシ」の訛った姿だったのです
 地元の人々は、「浜」の「梨」だから「ハマナシ」と呼んでいたのですが、これがどうにも「ハマナス」にしか聞こえない。そんなわけで、「ハマナス」という呼び方が定着してしまいました。
 つまり!
 あなたがどんなに田舎者を馬鹿にしようとも、「私は山の手育ちの立派な標準語使いですわよほほほ」と気取って見せても、「ハマナス」と口にした瞬間、あなたは豊かな東北弁の世界に足を踏み入れたことになってしまうのです。諦めなさい。

 ということを、3年ほど前に、@nifty の<全国ふるさと交流フォーラム>の方言会議室「全国云いたい方言集」に書いたことがある。
 よくお年寄りが嘆く、外来語の流入を取り上げるまでもなく、無い言葉は他から借りるしかないのである。おそらく、首都(江戸か京都かは知らない)にはハナマスはなかったか、あっても顧みられることがなかったのであろう。東北の片田舎で見つけたこの植物を呼ぶとき、どうしても地元の言葉を借りるしかなかったのだ
*1

 他に、他地域の方言(正しくは俚言というが)から流入したものに、「尾根」「春一番」などがある。「尾根」が使われるようになったのは明治期だと言われているが、東京には高い山はないから「尾根」に相当する言葉も当然なかったわけだ*2

 人や文物の交流によって異なった言語や方言が接触し、互いに影響を及ぼしあう。これは避け難いことなのだから、他の言葉をあれこれ評してみても始まらないのである。
 あなたが、どうあっても東北弁とは一線を画したいと思うのなら、海辺には近づかないことだ。まして、紅色の花を指差して「これは何という花?」などと聞いてはいけない。

後日談

 どうやら、この「ハマナス=『はなまし』の訛り説」は間違いらしい。
 そういうメールをいただいたので調べていたのだが、秋田魁新報の夕刊に佐伯一麦氏のエッセイが載っていた。まさにこの話だった。
 要約すると、「ハマナス=『はなまし』の訛り説」を説いたのは植物学の牧野富太郎博士なのだが、ある文章で、これまた有名な大槻文彦博士が「大言海」で「浜茄子」としたことを否定しているのだそうだ。根拠は、ハマナスの実が球形で、細長い卵形、いわゆる茄子の形とは似ても似つかないことであったらしい。
 しかし、江戸時代の文献には、ハマナスの丸い実を食用にしていることが記述されているそうだし、その当時の茄子が球形をしていたこともわかっている。つまり、牧野博士の勇み足である可能性が高い。

*1

「カンガルー」の逸話を思い出すが、これも「嘘」らしい。

*2

 この話をどこで聞いたのか思い出せない。確か、NHK の放送用語に関する文章だったとは思う。




第6夜 丸い卵も切りよで四角

 例えば、「」と“book”は必ずしもイコールではない。
 その証拠に、(今ではずいぶんと減ったと思うが)飲み屋で用意している紙マッチ。あれを“match book”というが
*1、日本語で言うところの「」でない。
 つまり、“book”が意味するところは「なんか大事なものを挟んである物体」であって*2書物を想像する我々の語感とはちょっと違う。

 方言も同様で、「それどういう意味?」と聞かれて、標準語の語彙を駆使して一生懸命説明するんだけれども、どうも正しい姿を伝えきれていないような気がする、というもどかしさを経験した人も多いだろう。

 東北〜北海道で使われる「まがす」という言葉がある。
 コップなどをひっくり返したために内容物が出てきてしまう、という状態を指すのだが、これを1単語で説明しようとすると「こぼす」としか言いようがない。あるいは「コップをひっくり返す」などといういかにも説明的な表現になってしまう。しかも、後者の場合は、焦点が「コップ」に移ってしまって居心地が悪い。

 ニュアンスをもっと説明する。
 容器はコップ、あるいはそれに準ずるものである。スープやシチューなど、平たい皿に入っているものを大きく揺らしたりひっくり返したりしても、「まがす」とは言えない。
 容器は倒れなくてはならない。料理中に鍋からふきこぼれた場合などは「まがす」は使えない。誰かがとっさに容器を支えることに成功した場合は、内容物が外に出ていても「まがす」は使いにくい。「まがすどこであった(あやうく『まがす』ところだった)」となるだろう。
 内容物は液体、もしくはそれに準ずるものである。計量カップの中に粉石鹸が入っていて、これをひっくり返した場合も「まがす」が使える。昔、流行したおもちゃの「スライム」のようなゲル状のものは不可である
 小さいもののほうが納まりがよい。大きなバケツやドラムカンにたまった水などの場合、「まがす」を使っていいものかどうか、ちょっと迷ってしまう。
「こぼす」と言ってしまうと、箸の使い方がうまくない子供の口からご飯がポロポロおちてくるのも含まれてしまうが、これは断じてまがす」とは言わない。
 これで「まがす」の本質をご理解いただけたものと思う。

 もう一つ。「折る」に相当する「おだる」。
 まず、折り畳み傘のように、はじめから折り曲げることが想定されていて、復元可能なものには使えない。蛇腹のついたストローも同様。蛇腹のない、まっすぐなストローを折ってしまって、もう使えないか、使用が困難になった場合は「おだる」と言うことができる。
「折り紙」のような平面体には使えない。細長い棒状のものでなくてはならない
 だから、「スキーで足おだった」とは言えるが、「*入院してだから千羽鶴をおだってやった*3」とは言えない。

 名前をつける、というのは分類することである*4。生活様式が違えば、分類の仕方も変わる。
 生活を海に頼ってきた八丈島では、時代によって違いはあるものの、風向きを表すことばが豊富である。例えば、北東風が「オワタナライ」、東北東風が「ヒガシナライ」、東風が「ヒガシカゼ」のように、24 方位すべてにあると言っていい*5
「ヤマセ」という言葉もおそらく全国的に有名であろうが、基本的に「山から吹いてくる風」という意味だから、吹いてくる方向が地域によって違う。
 この、物の見方の違いが面白いのである。

*1

 日本では「ブックマッチ」というようだ。“book match”は、“match book”の中の1本を指すのだが。

*2

 語源は「書物」である。ぶなの木(“boc”)の樹皮に書き物をしたためだそうだ(WEBSTER'S NEW WORLD DICTIONARY SECOND COLLEGE EDITION)。

*3

 この「*」は、それに続く表現が間違っていることを示す。「非文」という。

*4

 誰の言葉でしたっけ。

*5

 北見俊夫「風の言葉」(『言語』1992年12月号、大修館書店)。




第7夜 似て非なるもの

 前に、「なげる」という単語*1の話をした。「物を捨てる」という意味なのだが、「投げる」という単語が標準語にあるために、他の地域でもつい、物を捨てるときに「なげる」と言ってしまう、という勘違いを起こしやすい。

 これは明らかに違う例だが、逐語訳では標準語に置き換え可能だが意味がちょっと違う、という表現も多い。
 例えば「好ぎでね」。
 直訳すれば「好きでない」だが、実は「嫌いだ」という意味である。
 確かに標準語でも、「嫌いだ」ということを遠回しに言う時に「好きではない」と言うこともある。しかし、単に「好きではない」ということを表明しているだけで、嫌いなのか関心がないだけなのかは、もうちょい聞いてみないとわからない、ということもある。
 これに対して、秋田弁の「好ぎでね」は、はっきり「嫌い」なのである。
 過程はよく知らない。ひょっとしたら、もともとは婉曲表現だったのが、いつのまにかダイレクトな表現として使用されるようになったのかもしれない(こういう価値の低下はよくあることだ*2)。
 いずれにしろ、例えば旅先で失礼なことをして「好ぎでね」と面と向かって言われた時、「『好きではない』だから、まだ嫌われてはいないな」と安心したら大間違いである。
 もう一つ。「好ぎでね」は状況に対しても使うことが出来る。
 例えば、吹雪の日に定刻を 30 分過ぎてもバスが来ない、というようなとき「あい、好ぎでねごと」という。
 標準語では、これは出来まい。こういう状況で「ああ、好きじゃないな」と言ったら、「この人は急に何を言い出したんだ」という目で見られることだろう。この場合は「こういう状況は好きじゃないな」と、何が好きではないのかを補足しなければ、不自然な表現になってしまう。しかも、かなり遠回しで、苛立ちが伝わってこない

いらねごど」。
 これは「いらないこと」である。

A「この前、見へた資料めねぐなった、てが? 探せで
 (この前、見せた資料がなくなったって? 探せ)」
B「わがったでば。あ、こんたどこさ、飲み屋の名刺
 (わかったよ。あ、こんなところに飲み屋の名刺が)」
A「まず、いらねごどさねってもいいがら!
 (余計なことをしなくていいから!)」

 という風に使う。不要なもの、なくてもいいものを指すが、本質にたどり着くのに障害となるもの、というニュアンスがある。したがって、

A「セリオンさ行ぐバスってあらんだっけが
 (セリオン*3に行くバスってあるんだっけ)」
B「なに、土崎駅から歩って行ぐにいい
 (なぁに、土崎*4駅から歩いて行けるよ)」
C「バスだば秋田駅あだりがら出でらべどもな
 (バスは、秋田駅あたりから出てるんだろうけど)」
B「まず、いらねごど言うなって。わがらねぐなる
 (まぁ、余計なことを言うなって。わからなくなるから)」

 という使い方もできる。
 これも、標準語では「いらないことをするな」とは言いにくいであろう。「余計なこと」の方が自然な表現である。

 なお、上の「めねぐなった」は、直訳では「見えなくなった」だが、意味としては「紛失した」である。

 こうした表現の違いも、方言の範疇に入る。
「方言」の範囲って広いでしょ?

*1

 いわゆる「方言」の内、単語のことを「俚言(りげん)」と言う。

*2

 例えば、二人称“you”に対する単語として「貴様」というのがある。字面は高級な丁寧語だが、今では喧嘩のときに罵倒するため使う。

*3

 秋田市土崎港にある 143.6m のポートタワーと海の展示館、植物園からなるスポット。

*4

 秋田市北部にある港町。室町時代に、能代と並んで、日本海北国開運の七湊の一つに 数えられた程の要港であった。南北朝時代以降、安東氏の居城として栄えた。その反映は、この地域が秋田市に合併する前は「土崎港町」であったことからもわかる。(「土崎」『世界 大百科事典』1992年、平凡社)




第8夜 やだーきったなーい

「ズーズー弁」とかいう言葉が示すように、東北弁は「汚い方言」というイメージが強い。
 ま、濁点が多いのは確か。今回は素直に認めよう。
 認めるだけじゃなくて、特に汚そうな表現を集めてみた。

んが
 二人称だ。ただし、「お前」に相当する単語なので、喧嘩の時か、目上のものが目下のものを呼ぶとき、あるいは、かなり仲のいい関係でないと使えない。
 今、ある漫画を思い出している人は、あまり若くない。

だば
 二人称の話で、津軽の版画家・棟方志功の「わだばゴッホになる」という言葉を思い出した。「俺はゴッホになる」という意味だ。
だば」は、主格を示す助詞「は」に相当する。

どかちかで
 何かを成し遂げる時、騒がしく、かつおっちょこちょいな人を形容するときに使う。で、その作業は、手際が悪いとか、成功しないとか、マイナスの評価が与えられるものでなければならない。バタバタと大騒ぎしながらも、なんとか成功に漕ぎ着けるような場合は「どかちかで」は使いにくい。
 例えば料理の時に、塩がない、味噌はどこに行った、しまった白菜を先に切っとかなきゃ駄目だった、あー鍋がふいてる…と大騒ぎした挙げ句、肝心のご飯を炊くのを忘れていた、という場合、この人は「どかちかで」と言われても文句が言えない。
 汚い、というよりも、不思議な音の単語である。しかし、秋田衆にはこれがピッタリとくる。

げんげ
非常に」という意味だが、どちらかと言えば「異常に」の方に近い。しかも「意外」という含みも持つ。よい意味にも使える。
 朝一番に出社した人が「なんだが、げんげあったけと思ったっけ、夕べ暖房止めねで帰ったいんた(なんだかすごく暖かいと思ったら、夕べ、暖房を止めないで帰ってみたいだ)」という風に使う。

がっぱり
 大抵は、後に「はまってしまった」が続く。「ずっぽり」に相当するか。
「ずっぽり」もきれいではないな。
 怪獣の名前ではない。

がめる
盗む」だが、どちらかと言えば、万引き程度の小規模なものを指す。金庫破りとか、強盗などには使えない。
 万引きの方は、最近は「ぎる」という様だ。

ばっぱ」「ばば
 大便
 モノはともかく、音が汚い。

しね
 汚いというよりは、ショキングな言葉だ。
 あなたが友人とスルメを肴に酒を飲んでいたとしよう。楽しい話が、酒が進むにつれて、いつのまにか口論になり、場の雰囲気が非常に悪い。彼は、気まずさを誤魔化すかのようにスルメを口に運び、ひとこと「しね」とつぶやいた…恐い風景である。
 ご安心を。これは「固くはないが、噛み切りにくい」という意味である。餅などの様に、ネバネバして変形するものには使えない(と思うが自信ない)。
 この、ほとんどイカとタコを食うときにしか使えない単語が、どうして命脈を保っているのか、ちょっと不思議である。最近は、グミとかもあるが。
 あなたはこれがスルメであったことに感謝するべきであろう。もし、柿ピーであったら…。
 あ、スルメを食っていたからといって、彼がスルメのことを形容しているとは限らない





第9夜 今日の仕事は辛かった

 後は酒でも飲んで寝てしまうだけのことだ。

 こういう時には、思わず「こえ」という言葉が口をついて出る。
「疲れた」、という意味だ。精神的な疲労に使いにくいことを除けば、面倒なニュアンスもない。
 北関東
*あたりでは「こわい」というところもあるようだ。東北・北海道にかけて、この系統の表現が使われている。
 これは、疲労の結果、筋肉が強張っている状態を形容したものだとされている。
こえ」が精神的な疲労に使いにくいのはそのためであろう。
 もとは「わ」行で変化する単語なわけだが、秋田では「こや」という発音も聞かれ、どちらかと言えば「や」行で変化するようになってしまっている。

 久しぶりに、いろんな「疲れる」と比較してみよう。

英語 tired fatigue
フランス語  lassitude fatigue
ドイツ語  muede strapze

 前者が「疲れた」と同時に「飽きた・いやになった」という状態を示す。また、後者は「消耗して休みが必要」という状態である。さすがに似たような分類である。
 標準語の「疲れる」の語源は調べがつかなかった。古語辞典に寄れば「」「」でも、「疲る」と同じように「つかる」と読むことがあるようなので、その辺と関係があるのかもしれない。
くたびれる」という単語もあり、これは何故か「草臥れる」と書く。近くに「くたばる」という単語があるが、大いに関係ありそうだ。
 残念ながら、「こえ」と同じ見方をしているのは見つからなかったが。

こえぐ」なったとき、どうするか。
 本当に寝てしまえれば一番いいが、昼時だとそうもいかない。
 ゆえに、「ながまる」。
 団子虫などが丸くなることを「丸まる」という。それと同じ使い方で、「長くなる」のである。標準語あたりだと「横になる」というのではなかったか。
 意味も似たようなもので、体を横たえて休憩を取ることを言う。必ずしも眠らなくても良く、逆に、眠ったとしてもせいぜいが昼寝程度で、長時間の熟睡では「長まる」とは言えない。「なに、『ちょっと長まる』ってあったっけ、寝でらねが(おや、『ちょっと横になる』なんて言ってたのに、眠っているじゃないか)」といわれてしまう。

ねまる」という語もあるが、これは「座る」という意味である。古語辞典に寄れば、「粘る」と同じ語源の可能性もあるらしい。「いる・すわる/寝る・くつろぐ/平伏する/腐る」という意味だそうだから、これが残っているものと考えて間違いないだろう。
 津軽でも使う。


 で、昼寝をして職場復帰したものの、どうにも眠くて「ねぷかきして」しまうことがある。
 居眠りだ。
ねぷかきこぐ」場合もある。
 念の為にいっておくが、この「こぐ」は「ばかこくでねぇ」というマスコミ方言でお馴染みの「こく」がなまったものである。「居眠りをする」という意味で「舟を漕ぐ」というが、その「漕ぐ」ではない。
 それにしても、「ねぷかき」。
 不思議な音だ。

 疲れたので、今回はまとめずに終わる。

*

 茨城・栃木あたりの北関東は、方言で分類すると、「南東北」とでもいうべき特徴を持っている。

使用した辞典(参照順)

『プログレッシブ英和辞典』(1982) 小学館
『ジュネス仏和辞典』(1993) 大修館書店
『現代独和辞典』(1983) 三修社
『角川新版古語辞典』(1989) 角川書店
『大辞林』(1989) 三省堂




http://www.sam.hi-ho.ne.jp/~shuno/

c 1996-1999 Shuno, All rights reserved.