秋葉原界隈昔々

1999.07.01

電子出版情報センター  石橋俊之

 秋葉原へ少年時代から半世紀も通っている。以前はアンプやスピーカシステムの製作 で、最近はパソコンの組み立てである。駅周辺の数多くのオーディオショップ、パソ コンショップ、パーツ屋、ジャンク屋の開廃業を見ながら、何かとお世話になって きた。
 実は昨年の初めに、JEPAニュースに載った佐藤理事(アスキー)の文章に触発され て自家用パソコンの製作に取り掛かったのはいいが、SCSI方式のHDDとCD-ROMドライブ を選んだ結果、Config.sysとAutoexec.batの記述やドライバーのインストールにひど く苦しんだものだ。それにしても昨今のパーツの廉くなったことといったら…、など という話が今回のテーマではない。
 一昨年5月の飯田橋クラブで紹介があった「江戸東京古地図散歩(ポニーキャニオ ン刊)」のCD-ROMを再見したことから、江戸の切絵図への興味をもつようになった。 秋葉原が秋葉ノ原あるいは秋葉ガ原と呼ばれたからには「原っぱ」があった筈だ、ど こにあったのだろうと思って、「嘉永・慶応江戸切絵図(人文社刊)」や安政江戸図 に現代東京図を重ね合せた「復元江戸情報地図(朝日新聞社刊)」を精読して確認に 努めたが、幕末期の絵図には見出すことができなかった。それでもいくつか面白い発 見があったので、お伝えしたいと思う。
 JR秋葉原駅の敷地は、当時の神田佐久間町一丁目、神田柳屋敷、柳原大門町、神田 八軒町東叡山領代地、神田六軒町同、神田相生町同からなっている。駅前は秋葉原デ パートのあたりが牛込肴町代地、ラジオストア・ラジオデパートは神田仲町一丁目に あたる。日本通運の東側、ラオックスパソコン館の一部を含む一帯は、南北50m東西 100mほどの空き地だったが、これがその昔の秋葉ガ原の姿かどうかは不明である。 この広場の東北方から北へ下谷御成街道が通じ、現在の上野松坂屋南側のクランク道 を経て下谷広小路(現上野広小路)にいたる形は、大筋では現代と変わらない。
 途中のパソコンショップが集中している外神田三丁目あたりは、当時の神田旅籠町、 神田金澤町、神田仲町で、南に行けば神田川にぶつかる。現在の万世橋から約100m上 流(昌平橋寄り)に筋違橋が掛かっていて、渡ると交通博物館(旧JR万世橋駅跡)の 場所に筋違橋御門があった。門前は左右200m奥行50mほどの広場であり、正面に丹後 篠山藩・青山下野守(6万石)の、右隣に若狭小浜藩・酒井修理大夫(10万3千5百 石余)の上屋敷、左側は須田町通りから鍛冶町、今川橋、本石町を経て、室町3丁目 で浅草橋からきた奥州道中と合流し日本橋北詰へいたる道である。
 ところで、JEPA事務局が飯田橋にあったころ、牛込御門近くの日本歯科大学病院 の入口に「下馬」と刻まれた小碑があり、説明に明治以前ここは富永氏という旗本 屋敷でその碑を保存したもの、とあったと記憶している。JEPAが賃借していたオービ ットビルは、勘定奉行・石河土佐守の屋敷(後に平岡石見守)の一部だった。
 現事務局のある駿河台を東西に走る「トチの木通り」は当時大袋町、「カエデ通り」 は東から鈴木町、小袋町と呼ばれていた。その合流点から水道橋方面へ下る皀角 (さいかち)坂の途中のJR線路壁に、神田川の上を懸樋で渡した上水道跡の説明プレ ートが掛かっている。坂の上の東京デザイナー学院は旗本・鈴木長八郎の屋敷、わが 駿河台サンライズビルは竹内氏の(後に坪内氏)、お向いの主婦の友文化センターは 御小姓組・内藤右近の(後に斎藤左源太)、隣のアテネフランセは旗本・堀金之助の それぞれ屋敷地であった。