電子出版の文化

2007.02.01

翔泳社  清水 隆

 百科事典などによると文明(civilization)と文化(culture)は、言葉として登場したときは同じような意味に使われていたが、その多様性が理解されるにしたがって異なる意味が与えられていったようだ。「文化とは墓石や便器の形のように説明できないものである」という意味のことを週刊誌のコラムで読んだ記憶がある。たしか、筆者は司馬遼太郎だったような……。 また、映画『インディジョーンズ』では、砂漠のただ中にあるエジプト遺跡調査隊の快適なテント生活を「Italian civilization」という言葉で表していたのが印象的だった。
 文明と文化という言葉の端的な用法の例なのかもしれない。多分こういう言い方は許されるのだろう。文明の発展にともなって、デジタル化とネットワークが普及し、その結果、電子出版は市民社会のあらゆるところに出現してる。電子辞書はスーパーの家電売り場、量販店などのどこにでもコーナーが設けられ、携帯電話で小説やマンガを読んだり、写真集をながめる人も増えている。そして、何よりもWebは膨大な情報そのものである。Webは従来の「出版」というものとは異なるが、同じように利用できる。
 問題は、説明できないものとしての「文化」の側面ではないか。紙の本のメタファーを引きずった「電子出版」は上に書いた例ほど元気はないようだ。紙のメタファーである限り、紙のユーザビリティの高さにはハードウェアとしても勝ることはなかなか難しいようだ。もちろん、読書端末のユーザビリティが勝っている部分があるにしても、生活に入り込み「文化」とはなっていない。
 携帯電話は、すでに文化として確立している。日本では、絵文字もろもろ含めて日本的な携帯電話の文化が形づくられ、米国ではよりPDA的な携帯電話が普及している。国によって特色が出るというのも「文化」となった証なのだろう。私自身がそうであるように、おそらくJEPAに集う方々は、紙の本の文化をこよなく愛しているのだと思う。紙の本の文化はそのまま愛おしめばいいのだと思う。その先で、電子出版の文化はどこに花開くのだろうか。電子辞書とも、携帯電話とも異なる、電子出版のための新しい文化の受容体がわれわれの社会に出現する、あるいはもう出現しているのだろうか。