湯島だより

2011.02.02

大修館書店  飯塚 利昭

 JEPA関係の方にも何人かすでにおいでいただいたが,小社は2010年12月に,社屋を文京区湯島2丁目に移転した。自ら思い立って好んで移転したわけではなく,これまでの千代田区神田錦町3丁目24番地が,隣の22番地(博報堂の旧本社があった)と共に「再開発」されることになったためである。同地には創業10年目の1928(昭和3)年に事務所を構えて以来,80年以上本社があった。
 旧ビルが建ったのは1968年だった。その旧ビルがまだそれほど古びていなかった三十数年前の職場は,夕方ともなると向こうが少しかすんで見えるほどタバコの煙が立ちこめ,絶えず誰かが電話で哀願したり怒ったり謝ったりする声が聞こえていた。仕事上のコミュニケーション手段はもっぱら電話と郵便だったが,長距離電話は高かった(大阪との通話は3分で500円ぐらいした)から,葉書をよく使った。いまのメールのように,1日に何枚も書くことがあった。70年代の終わりごろになって,そこにファックスが加わった。
 文書作成にワープロ専用機が使われるようになったのは80年代後半で,それまですべて手書きだった原稿がワープロ文書(のプリントアウト)になって圧倒的に読みやすくなった。自他共に認める悪筆の某先生から初めてワープロ原稿をもらったとき,思わず「いい時代になりましたね」と言ってしまったりもした。と思ったら,ほどなくワープロのフロッピーを印刷所に渡すと文字データがそのままCTS(組版)に流し込めるようになった。これにより,印刷術の発明以来ずっと不可欠だった原稿と校正刷を1字1字突き合わせる作業が不要になった。
 90年代以降,文書作成の機能はパソコンに移行し,パソコンは電話線を介して外界につながるようになった。今思うと,仕事の方法を最も大きく変えたのは,パソコン自体というより,電子メールとインターネットだった。上記のフロッピーで原稿を渡す時代はあっという間に終わって,メールでデータをやりとりするようになった。
 名編集者だった鉄道作家・宮脇俊三のエッセイに,新幹線開通以前は関西まで行くという行為の価値が非常に高く,わざわざ行った者はそれにふさわしい応対をされたということが書かれていた。夜行で行って朝京都に着いた宮脇のために,朝風呂をわかして待っていてくれた著者さえあったという。
 文書(および音声・動画)を世界に公表する(これがすなわち publish)ことがネット上で容易にできるいま,紙の書籍を発行することは,「わざわざ手間をかける」ことにほかならない。一方で,電子書籍だって,売れるものにするためにはある程度の手間はかかる。
 データだけで流通するのにふさわしいものに余分な手間をかける必要はない。しかし,手間をかける価値のあるものには十分に手間をかけるようにしたい,それが評価されることもあるだろう――と,学問の神様である湯島天神にほど近い新社屋の真新しい机に向かって思った。