「あまちゃん」とデジタル教科書

2013.06.01

旺文社  生駒 大壱

 デジタル教科書の話である。しかし、まずテレビの話。
 テレビ番組(特にニュース・バラエティ系)のつくり方で、個人的に秀逸と思う工夫が2つある。
 ひとつは、出演者のコメントの要点をテロップで流すあれだ。最近はやりすぎでどうかとも思うが、あれはまさにテレビ的工夫だ。聞く「音声」より見る「文字」の明解さ・強さにより、瞬時にそこで行われていることが理解できる。
 二つめは、フリップボードの一部をシールで隠して、話の流れに応じて剥がしてゆく「めくりフリップ」だ。あれも見ている人に今話している話に集中して貰うことと、めくった先への期待感を狙って生まれた。
 どちらの工夫もテレビを見ている人が分かり易いように誰かが考えたアイデアが一般的にどんどん使われる様になって来た。つまりあれは視聴者のために、具体的に何かをしてほしくて(理解して欲しいとか集中して欲しいとか)生まれたアイデアなのだ。
 テレビといえば、もうひとつ。NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が人気だが、あの宮本信子のナレーションは、実は深い意図に基づいているというのだ。要所要所で主人公の心理やストーリーの補足をしたりするわけだけれど、あれは朝の忙しい時に「ながら視聴」する視聴者のために、それほどテレビ画面に集中していなくても物語について行けるようにしているのだそうだ。素晴らしい気配りだ。
 さて、デジタル教科書の話。配信プラットフォームやデータフォーマット、コンテンツの中身など検討課題は山のようにある。動画やインタラクティブな工夫などの機能面も考えればきりがない。デジタル教科書にどのような工夫を盛り込むのかという点では、それを授業であるいは自習でどう使うのか、なにをしてもらいたいのかいうことをまず考えて、それから具体策を考えていくのが重要だと思う。そこからこそ「あまちゃん」のナレーション的なものは生まれてくるはず。
 先生がいる授業で使うという視点で考えるのと、家に持って帰って使うという視点で考えるのでは、大きく中身が変わってくる。授業で使うことを中心に考えるなら、工夫すべきは電子黒板などの先生側のツールであって、生徒側にはあまり多くの機能は必要ないと考えられる。例えば資料的な動画は、先生が電子黒板で流せばよく、生徒が各自にそれぞれで見る必要はないかもしれない。各自で勝手に見ると授業進行の妨げになる可能性もある。
 一方、自宅に持ち帰って使うという観点を重視するなら、全く違うアプローチになるだろう。インプットだけでなく、問題演習などのアウトプットの充実も重要となるかもしれない。紙の教科書は、出版社と執筆の先生そして文科省とプレーヤーが少なかったので検討がシンプルだったが、デジタルになるとハードメーカー、プラットフォーマー、ソフトウエアベンダーなどいろいろなプレーヤーが関わってくる。生徒や先生という利用者不在の進化がどんどん進むリスクが増えて来る。
 「誰が」「何のために」「どう使うか」。これを忘れないで、デジタル教科書という卵を素晴らしいものに成長させていきたいと思う。