電子書籍からもオーディオブックからもはみ出すもののために

2021.07.01

岩波書店  入谷 芳孝

 1987年に『広辞苑 第三版CD-ROM版』を発売して以来、岩波書店は種々様々な内容の電子出版を試みてきました。今回はせっかくの機会を頂戴しましたので、いま、私たちが配信中の(そして配信準備中の)やや珍しい形態の電子書籍をご紹介させていただき、あわせて現在直面している問題も共有させていただきたいとおもいます。

 一つは「谷川俊太郎~これまでの詩・これからの詩~」(第1弾54巻は2016年10月27日に配信済み、第2弾4巻は2021年秋配信予定、https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/479)、もう一つは『自選 谷川俊太郎詩集 英訳・朗読付き』(2022年初春配信予定)です。前者はこの国民詩人の単行詩集(単行本の詩集として刊行されたもの。アンソロジーの類をのぞく)に収録されたすべての詩のみならず、そのほぼすべての英訳と、さらには詩人自身による朗読を収めた「谷川俊太郎全詩集」です。そして後者は、岩波文庫の一冊としてすでに配信されている『自選 谷川俊太郎詩集』に収録された173篇のすべてに、その英訳と谷川さんご自身による朗読を加えたベスト版です。両方とも、谷川ファンだけでなく国文学研究者にも極めて興味深い、貴重なアーカイブとしての役割を担う企画です。

 私は目下地道にこれらの編集作業にあたっているのですが、簡単には見過ごせない問題に直面することになりました。谷川先生のご自宅でそれなりの時間をかけて録音したこの貴重な音源を埋め込んだ電子書籍を取り扱える電子書籍ストアがじつは限られているという問題です(音声再生が可能な電子書籍ビューアが限られていると言ったほうが正確でしょうか?)。

 当初は、音声再生機能が付いた「端末」であればどのビューアでも対応しているだろうと高をくくっていたのですが、どうやら私の認識不足だったらしく、現時点でこうした音声埋込式の電子書籍に対応しているのは、Apple Books、Kinoppy、hontoだけで、最大手のアマゾンkindleは非対応のようなのです。アマゾンのKindleパブリッシング・ガイドラインには、以下のような注意書きがあります。————「Amazon では現在、音声または動画の形式で本の全テキストまたは複数のページが朗読される「Read-Along」コンテンツの音声が埋め込まれたオーディオブック/ビデオブックには対応していません。」これが私たちが現在直面している問題に対応する注意書きなのかどうかはよくわかりません。でも、おそらくアマゾンは会社の方針として、とくにaudibleとの棲み分けを考えたうえで音声埋込式の電子書籍に対応するつもりはないのだろうと推測しています。

 そうはいうものの、できれば、いや頼むから、対応してほしい!というのが私たちの心からの願いです。とくにGIGAスクール構想が、もはや「構想」でなくなった今、子どもたちの国語教育、ことに読解力向上のためにも、ぜひ音声埋込式の電子書籍にも対応してほしいと願っています。

 といいますのも、詩というのは散文(たとえば小説)よりも分かりづらいことが多い(ですよね)。文字づらだけを眺めていたのではよくわからない(ことも多い)。でも、それを英語というフィルターを通すと、とてもよく理解できるようになります。これは現代詩にかぎったことではなくて、たとえば万葉集の長歌を読んでよくわからなくても、リービ英雄さんの英訳を読むと瞬時に鮮明なイメージが像を結ぶ。おそらくこれは英語という主語述語の関係をはっきりさせないと気がすまない、あるいは混乱した構造の日本語を理路整然とした説明的な文章に転換しないと気がすまない英語という言語の特性によるものだとおもいますが、そのおかげで、いい加減に読んでわかったふうな気になっていた日本語の原詩の意味がはっきりわかるようになるのです。

 朗読の効用も然り。読者が黙読しているだけでは気づかないことに気づかさせてくれるのがとくに「作者自身による朗読」で、一行一行の中でどの単語を強く読むのか、次の行に移るまでの間合いはどのくらいがふさわしいのか、どの連をゆっくり、どの連を早くよむのかなど、作者自身による朗読を聞いてはじめて理解できた! と胸にストンと落ちる経験をこれまでになんど繰り返してきたことでしょう! ことほどさように、日本語の詩を英訳を通して読み返してみること、そして作者自身による朗読を聞くことは、確実に読解力向上につながる最高の学習法になるのです。

 思い返せば、私がこれまで編集者として接してきた先生方は、例外なく「詩ごころ」にめぐまれた方々でした。ポエジーを、詩情をごく自然に身の内に引き受けておられていた先生方からいただいた原稿は、ほとんど赤字を入れる必要がありませんでした(「極論すれば」の話ですが)。会社の同僚でも学生時代の友人でも、詩ごころに恵まれた人はおしなべて読解力も高く、感じたこと、考えたことを言語化する能力も高かったようにおもいます。だからこそ、これからの時代をになう若い人たちにはぜひ詩にふれてもらいたい————。詩の理解を深める手だてとしての英訳と作者自身による朗読を一つの電子書籍の中にパッケージとして埋め込むことを企画したゆえんです。

 アマゾンさんはおそらく音声埋込式の電子書籍に対応されることはないだろうとおもいますが、アマゾンジャパンさんが現在アメリカ本社に「対応してほしい!」という私たちの要望を伝えてくださっています。1年後でも2年後でもいいので、万に一つとおもわれる肯定的な回答が寄せられるのを期待しつつ、地道な編集作業に没頭する日々がいましばらく続きます。