いま漢字は・・・

1998.07.01

大修館書店  森田 六朗

 去る6月25日の朝刊各紙は、国語審議会が表外字字体表試案を文部大臣に報
告した、との記事を一斉に載せている。表外字(常用漢字表にない漢字)につい
て、いわゆる康煕字典体(伝統的な字体)を印刷標準として使うことを求めたも
のだ。

 ご存じのように83年のJIS改定で表外字の一部に略字体が採用され、パソ
コンでは、たとえば「鴎」の字は旧来の(區+鳥)の字体が書けなくなり(現に
今こうして原稿を書いていて、このカモメの新旧の漢字を書き分けることができ
ない)、その結果、表外字は康煕字典体を使う教科書や辞典との間で違いがでて
いることから来たもののようだ。

 表外字の略字体は、83JISで採用された早い時点から問題視されてきた
が、文部省ないし国語審議会の対応はきわめて慎重なものだった。確かに字体の
問題は、そう軽々に扱うべきものではない。しかしワープロ・パソコンで「鴎」
の字を書くときに、略字体しか書けない、康煕字典体では書けない、つまりそう
いう選択の自由がユーザーサイドにないということになると、このように書け、
といっているのと同じである。いくら通産省があくまでも工業規格で、日本人の
用字法を規定するものではないといっても、これはもう筆記上の立派なスタンダ
ードで、強い強制力をもつものと言わざるをえない。

 さらに指摘しておくと、一般の人々はワープロやパソコンで打った文字は、印
刷物に近いものと思っている。活字あるいは印刷物とおなじように、そこに使わ
れている字体は正しいもの、少なくとも規範的なものと感じている。そうでなく
て、共通して「情報交換」などということが可能なわけがない。

 JISの規格が本当に工業規格であるだけというのなら、略字体と康煕字典体
を入れ替えるのではなく、どちらも取り入れて、あとはユーザーの使用に任せる
べきではなかったか。字形の大きく異なるものだけでもそうすべきだった。

 国語審議会は、「簡易慣用字体」などと39字の例外までつくって、表外字に
は康煕字典体を、と言っているようだが、今さらの感が深い。いっそ常用漢字表
の枠を拡げ、その39字を取り込んでしまってもよかったのではないか。実際、
例外として認めざるをえないほどに「常用」されているのだから。

 そうすればマスコミから『「常用」は略字体、表外字は康煕体。二重基準、浸
透の疑問』(朝日)などど、余計な揚げ足をとられなくてすんだかもしれない。
もともと常用漢字表は文部省があくまでも目安として作ったものであり、すでに
相当時間もたっているので、時代とともに変更があって一向におかしくない。

 6万とも7万とも言われる漢字のすべてが、いつの時代にも生命ある存在とし
てあったわけではない。そのほとんどは悠久の東洋文化の担い手として、ある時
代、ある役割を果たしてきただけである。今やコンピュータがほとんど無限に漢
字を扱える時代になって、そうした東洋の文化遺産を継承するために、例えば西
欧のシェイクスピア全集やカント全集などのように、漢字による電子データベー
スが各種出現することになるだろうが、それとは別のところで、現代日本語を支
える文字体系としての漢字について、もっと本質的な論議がなされる必要がある
ように思う。