舞台に留まろう

2007.06.01

医学書院  金原 俊

 つくづくネットは便利だ。様々な種類の価値あるコンテンツがネット上に溢れ、それらが手軽に閲覧できて、しかも多くは無料である。「世の中、便利になったものだ」、と多くの人が感じているだろう。電子出版は今や夢ではない。ついに長年我々が待ちこがれていた舞台が調ったのである。持てる力を発揮し、長年の構想を実現する時がやってきたのだ。
 しかし、この状況に出版各社の力が入ってきているかと言えば、そうではない。逆に電子出版から撤退するケースすら見られる。その理由は明快だ。儲からないのである。そのうえ手間も掛る。苦労して電子出版で得る収益は、紙であればもっと楽に得られる。紙と電子はユーザにとっては大差ないが、出版社にとっては大違いである。製品の形態、製造方法、お金を貰う相手、販路、宣伝方法、と何もかもが全く違う。まるで別世界だ。これで収益が充分でなければ、消極的になるのも無理はない。次善の策としてよく用いられるのが、第三者にコンテンツを有償で委ねる方法だが、製造、販売を委ねるため、価格決定権や流通権を失うことになり、出版とは異なるものの様に思える。こうしたことから日本の電子出版においては、既存の出版社が主導的な役割を果たし得ないことが多いように感じられる。
 世界を見るとこの20年程の間、欧米のSTM(自然科学)出版社は、真剣に電子出版に取り組んだ。電子化が彼らの最大のテーマであったと言っても良い。そのため決して大げさでなく、生死をかけて対応した。持てる資金を、データベース会社やCD-ROM発行会社の買収に思い切って投入した。電子化に対応できない出版社はやがて消滅し、対応した出版社に吸収された。こうして出版の舞台から消えていった出版社は10社や20社ではない。生き残った出版社は、今、更に強力に電子化を推進させており、彼らに迷いは無い。結果として日本より早く、新たなビジネスモデルの構築に成功し、電子の世界でも出版社としての主導権を維持している。
 その違いはどこから生じたのだろうか。大変よく売れた書籍「ウェブ進化論」の副題は、「本当の大変化はこれから始まる」である。即ち「現在の変化に驚いてはいけない。これはほんの序の口であり、社会や産業に大変革がやってくるのはこれからだ」と言うのである。ほぼ同様のことをシュプリンガー社のヤン・フェルテロップ氏も述べていた。曰く「地球を支配していた恐竜は隕石の衝突で絶滅したが、隕石に当たって死んだのではなく、衝突後に気象や生態系が長い時間をかけて徐々に変化し、それに対応できずに消滅した。ネットによる大変革は隕石による変化と同様、今後、長い時間をかけて起きる。出版社は恐竜同様、変化に対応しにくい存在だ」とのことである。
 この恐竜絶滅の例えのように、欧米のSTM各社は、ネットの出現のインパクトや電子出版の意義を、我々よりずっと大きなものと捉えているようである。マルチメディア華やかなりし頃、「電子出版は新たな領域に活路を開くもので、既存の市場とは別に、プラスの恩恵をもたらすもの」と言われ、現在もその認識が日本では一般的と思う。だから電子出版はオプションであり、参入しない選択肢も当然、あると考えられている。しかし彼らは長期的視野に立ち、ネットの衝撃を巨大なものと捉え、電子出版は既存の出版市場の置換えであり、出版社である以上、不可欠の事業と考えている様だ。ネットの世界でも彼らが主導権を維持しているのはその捉え方の差のように思われる。そうであるなら話はむしろ簡単である(実行は難しいが)。その変化に我々自身を精一杯適合させ、必死になってこの出版の舞台で演じるしか選択肢はない。そうでなければ舞台から下ろされてしまう。
 それでは姿かたちの全く異なる電子出版に、一体どうやって取り組めば良いのだろうか。その答えは実は得意とする紙の出版の役割にこそあると思う。確かに電子出版は別世界のように見えるが、あくまで出版の一部であり、本質も出版そのものである。どんなに手法が変わっても、出版の役割は本質的に変わらないはずだ。読者を明確に想定し、情報を収集し、取捨選択し、再構築する。そして読者が読みやすい形に組上げ、媒体上に固定する。更に適切な価格やルートで読者が求める場所に届ける。それら全てが紙の出版の役割であり、それは電子であろうとも不変である。出版の役割を理解する人が、媒体や手法の違いを枝葉の問題と捉え、電子においてもそれら全ての役割を果たせば良いのである。従って、これは出版人が行うのが最も適しており、自信を持って、かつ精一杯に、この役割を果たしていきたい。そうして皆さんと共にこの舞台に留まりたいと願っている。