出がらし デジタル教科書の憂鬱

2022.03.01

光村図書出版  黒川 弘一

 デジタル教科書の話題も今回で三回目なので、ホップ・ステップ・ジャンプのジャンプと威勢よく行きたいところだが、三度目の憂鬱に絡めて「出がらし」の話となることをおゆるしいただきたい。

 自分が教科書の編集からデジタル教科書の開発に関わり始めたのが2000年なので、もう22年にもなる。e-Japan計画によってスタートした教育の情報化政策とともに、ようやくここまで来たか、という思いと、まだこんなところまでしかたどり着いていないのか、というのが率直な気持ちだ。
 余談だが、2005年の発売時にデジタル教科書と命名して物議をかもしたことがあった。高名な先生から電子書籍、電子黒板なので電子教科書とすべきではないか、とご意見をいただいたが、あえて「デジタル」という言葉にこだわった結果、定着して今日に至っている。

 そもそも、公教育の主たる教材である教科書を、なぜデジタル化すべきと思ったのか。

 一つ目は、学び方が変わることだ。授業中、子供たちが先生の話や友だちの正解を聞いて終わるのではなく、一人ひとりの学びがはじまり、対話や活動が広がること。当時、生活科や総合学習に関わっていたことも背景にあるが、ここを教育の転換点とすべきと考えた。長らく日本の教育を支えてきた教科書・黒板・ノートの三種の神器による一斉学習的指導から、子ども一人ひとりが学びを取り戻す、学び方の転換点として、である。

 黒板が電子黒板に、教科書やノートがデジタル教科書やタブレット端末に入れ替わっても大きくは変わらない。もちろん、文字や写真、イラストが動画や音声等によって伝えられる学習効果は大きい。しかし、デジタル化が、知識や学びのあり方を決定的に変えていくことは明らかだろう。なぜなら、コンテンツがデジタル化されネットワーク化されると、それまで受容するだけだった知識が、自ら考え吟味する過程で、素材を組み替えたり、別の教材に探求を広げたり、他者の意見を取り込んだりと、試行錯誤しながら新たな世界を表現できるようになるからだ。一方向の受動的な学びから、多様で多層的に広がる主体的・対話的・協働的な学びへ転換するきっかけになるだろうと考えた。

 二つ目は、一人ひとりの子どもにカスタマイズできるようになることだ。表示変更、書体変更、総ルビ、音声読み上げなどの特別支援機能により、誰でも内容にアクセスしやすくなることは大きな意義を持つ。それらは現在のデジタル教科書に実現されており、普及の過程で実証されていくはずだ。

 今後、デジタル教科書は公教育の政策としてどう着地していくのだろうか。GIGAスクール構想がコロナの影響により前倒しされ、一人1台端末が実現したことで、2024年度の教科書改訂期に向けての本格導入に拍車がかかっている。しかし、紙とデジタルの併用を前提としつつ、義務教育のすべての学校、教科で使えるようにするのにはあまりにも多くの課題が山積している。ネットワークや端末の持続的整備、完全供給、標準の仕様や規格の策定、さらには将来に向けた学習履歴データ活用に向けた設計等。そして、それらを支える予算が最大の課題だ。義務教育の教科書は国家予算によって無償給与される制度で運用されているので、限られた予算で実現することが求められることになる。

 そんな教育DXが進みつつある中で、現在、いちばん遠いのは学校現場であり、先生方や子供たちではないかと感じている。パラダイムチェンジは技術と制度と文化が三位一体となるときに起こると言われる。「技術」と「制度」はトップダウンで進められるが、「文化」は醸成する時間が必要だ。現場では、個別最適な学習をどう実現するのか、家庭学習やオンライン学習をどうすべきか、デジタル教材等をどう活用すれば子供たちの学びが豊かになるのか、切実に問われている。まさに文化としての新たな学習様式の確立が問われているのだ。改革は急がなくてはならないが、使うことだけに形骸化することなく、コンセンサスをもって基盤となる文化や学びを育てていかねばならない。

 はたしてデジタル教科書にこめた思いは届くのだろうか。いましばらく、デジタル教科書の憂鬱は続きそうだ。