読書という体験

2023.08.01

岩波書店  森川 裕美

 本を読むという行為。それは繋がりを探すこと。新たな点を発見する喜び、点と点とが線で繋がることを知る驚き、新たな点を、線を、それが向かう彼方を模索する楽しみ、それを一人一人が自分なりに、心の赴くまま追い求められる自由。物語であったり、事実であったり、思索であったり、様々な出会いが、無尽蔵に、そこにはある。

 その思いを胸に、読書という営みの一翼を担う出版業に就いていますが、電子出版に多少なりとも関わるようになりましたので、デジタルで読むという行為について思うことを書きます。

 岩波書店の電子出版は、『広辞苑』を初めとする辞典類の電子版、単行本・文庫・新書類のEPUB版、学術書のPDF版を手掛けています。その他、オーディオブックや、著者の昔の講演の音声配信などもしています。数年前と比べますと、ようやく軌道に乗り始めた感はありますものの、電子化するタイトル数の増点やタイミングの早期化、権利関係の整理など、取り組みたい課題はまだ多く、途上の段階です。新刊と、そして膨大な数の既刊から電子書籍としても読んでいただきたいタイトルを選書しながら、どのような本との出会い、読書体験を提供できるかを検討する日々です。

 デジタルでの読書は、本が読者により近づく体験だと感じます。手に入れればアクセシビリティもよく、自由なテキスト検索、プラットフォームによっては相互参照もでき、自分だけの読み方を見つけられる楽しさがあります。サブスクリプションという読書もデジタルだからこその手法で、知らなかった作品と偶然に出会ったり、恐る恐る読み始めてみた作品に没入して次にも手を延ばしたり、広がる読書の試みです。デジタルは新しい読み方を提案しますが、どのような作品を届けたいか、紙の本とも繋がる工夫を考えられないか、そこに面白い展開が待ち受けてはいないだろうかと、思い巡らします。

 一つ、読書体験を左右するものとして気になっていますのが、リフロー型かフィックス型かの選択です。本を読む時、読んでいるのはテキストと図版ですが、レイアウトも無視できない要素です。印象的なフレーズや図版は心に残り、その形のまま想起することがあります。あのページのあの辺りに書かれていた、と配置ごと思い起こす視覚的な記憶です。自分自身は紙の書籍も電子書籍も頓着せずに読みますし、電子書籍は本を持ち歩かずとも、場所を問わず思い付いた時にいつでも読める素晴らしさを実感します。

 ですが、その時々で端末を持ち替えながら読み進めますと、リフロー型は断然読みやすい反面、その度にレイアウトが変わり、読み返しても視覚的な記憶を伴わないことへの戸惑いを感じることがあります。フレーズを覚えていれば検索して簡単に探し出せるものの、実はフィックス型の方が、記憶への定着という面では優位性があるのではないかと思う点でもあります。これもリフロー型での読書が通常のことになれば、人はそれに合った記憶の形に変わっていくのでしょうか。興味深く思っています。

 新しい読書を、次への期待を、自分もまた一読者として、創っていきたい。

 今年8月、岩波書店は創業110年を迎えます。これを機に、主として21世紀に刊行された単行本から、読売文学賞、大佛次郎賞、サントリー学芸賞、毎日出版文化賞などの受賞作や、読者から多くの支持を受けた話題作110点を精選して電子書籍化し、創業記念の8月5日から年末にかけて順次配信します。いずれも末永く読み継がれてほしい名著です。知を繋ぐ。未来を紡ぐ。ぜひ、ご注目いただけましたら幸甚です。
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